障がい者が家族にいた人間として、24時間テレビのお涙頂戴に色々思うところ

障がい者が家族にいた人間として、24時間テレビのお涙頂戴に色々思うところ

今年の日テレ系24時間テレビが、先週末放送されました。全国から感動の涙があふれ・・・たのかどうかは知りません。

Eテレでは裏番組で、「障がい者は感動ポルノ」といった批判内容を展開していたらしいです。

私は一応「健常者」と呼ばれる部類の体の持ち主ですが、家族に「障がい者」と位置付けられる状態の人間がいました。

そんなわけで、家族として色々思うところを書いてみます。

家族に障がい者が良く考えたら二人

「障がい者」といちいち意識しないと忘れるほど私にとっては普通のことですが、私の家族には一応その「障がい者」と分類される人間が二人いました。

まず、祖父は目が見えませんでした。更に、父も腎不全により障害手帳1級。幼い頃から、目が見えなかったり生涯治らない病気を持っている人が普通にいた環境でした。

その状態が「普通」

あまりにそれが普通だったためか、「目が見えない」とか「おしっこが出ない」というのも、例えば「背が高い」や「頭の毛が薄い」と言った、そういう体の特徴と変わらない感覚で、いちいち特別に感じたことはなかったです。

でも彼らが生活するときにやり辛いことも色々あったわけで、そういうところ出来る人がやる。それでいいじゃん、それが当たり前。そんな風にして育ちました。

目も見えるし大きな病気もない健康なご家族の方々から見れば「大変だね」かもしれませんが、少なくとも私自信は、大変とも何とも思ってませんでした。本人たちはもちろん大変なこともあったと思います。

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日テレの取り上げ方のほうが、ある意味「差別」

そんな私なので、殊更に障がい者を取り上げて、「どう?感動するでしょ?」な日テレの取り上げ方そのものが、寧ろ障がい者への差別に感じられなくもありません。

それでいて、障がい者ストーリーでお金を集めてる部分もあるんだから、余計になんだかな、です。でも一応震災支援などに寄付されるお金ですので、それが集まるのに役立ってると思えばいいのかもしれませんが・・・。

そもそも論

「障がい者」というくくりもどうかと思いますが、健常者(マジョリティ)が作った社会の仕組みでは生活しづらい点があることも確かです。目が見えない方のホーム転落事故もしかり。

何かしらの援助を「健常者から」受けるには、ある程度のくくりも致し方無いでしょうか。

「かわいそう」と思われることのほうが、かわいそう

時々、特に盲目や聾などの障害に関して「かわいそう」というような意見も聞きます。

確かに健常者が作った社会システムの中では、健常者でいたほうが暮らしやすい。それは間違いない。

ですが、見えない・聞こえない等が普通の人間・家族としては、何故かわいそうと思われないといけないのか、逆に疑問です。だってそれが普通なんですから。

背が低い、あざがある、そういうのと同じで、社会でも一つの身体特徴であるように受け入れられてほしいです。

背が低い人には高いところにあるものを取って助けてあげるのと同じように、目が見えない人には出口の方向を教えてあげたり、耳が聞こえない人には筆談や手話をしたり、そういうことが特別なことと思われずに出来る社会に、もっとなってほしいと常々思ってます。

ちなみに私は、手話はカタコトですが出来ます。いつか耳が不自由な人を雇用する時が来るかもしれないと思い、脱サラしてから習いに行きました。

障がい者で感動しなくなる社会になってほしいね

24時間テレビなどの番組自体が、そもそも「障がい者」という存在を特別視させる作りで、それが結局は健常者と障がい者の区別をより意識させてしまっている印象がとてもします。

確かに目が見えない方等が富士山登頂をしたり、パラリンピックでメダルを取ったり、というのは、「健常者」からしたら「すごいなぁ」「私も頑張ろう」と思えるのかもしれない。

ですが、私は障がい者を特別視するような社会ではなく、彼らが自然に健常者に溶け込んで生活できる社会になってほしい。パラリンピックの種目も、オリンピックの中で同時進行してくれればいいのに、といつも思う。

クラスや会社でも普通に「障がい者」と呼ばれる人たちがいて、彼らが出来ないことは出来る人が助ける、「助けることの何が偉いの?だって普通じゃん」と思えるような人が、もっと増えていってほしいです。

NHKの「笑いは地球を救う」再放送アリ

9/1(木)深夜に、24時間テレビの裏番組として放送されたNHKの番組の再放送予定があるみたいですよ。

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